「恥の多い生涯を送って来ました」の意味は?人間失格の第一の手記を原文で読み、道化と「ワザ。ワザ」、27歳の結びまで5つの読みかた

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「恥の多い生涯を送って来ました。」は、太宰治の『人間失格』に出てくる一文です。日本の小説の書き出しの中でも特によく知られ、自分を笑う決まり文句としてSNSで使われることも少なくありません。

この記事では、青空文庫で公開されている本文と、太宰治の自筆資料のデータベース、三鷹市の年譜をもとに、この一文がどこに書かれているか、どんな意味か、道化の告白、結末の言葉、よくある誤解とゆかりの地を順に紹介します。

目次

「恥の多い生涯を送って来ました」はどこに書かれた言葉か

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よく「人間失格の冒頭」と紹介されるこの一文ですが、実は小説の一行目ではありません。まず、作品の組み立てと、書かれた時期を見ておきましょう。

はしがきの「三葉の写真」と、第一の手記の書き出し

『人間失格』は、「はしがき」「第一の手記」「第二の手記」「第三の手記」「あとがき」の5つの部分からできています。青空文庫の本文で最初に置かれているのは「はしがき」です。その一行目は「私は、その男の写真を三葉、見たことがある。」で始まります。

はしがきの語り手「私」は、ある男の写真を3枚見たと語ります。1枚目は10歳前後の子どもの写真で、大勢の女の人に囲まれて庭の池のほとりに立ち、首を30度ほど左に傾けて「醜く笑っている」写真です。2枚目は学生のころで、美しいけれど人間の笑いとは違う不思議な笑顔です。3枚目は年齢のわからない顔で、表情がまったくなく、見る者をぞっとさせると書かれています。

はしがきの最後で「私」は、こんな不思議な男の顔をこれまで一度も見たことがないと言い切ります。そのあとにページが改まり、「第一の手記」という見出しに続いて置かれているのが「恥の多い生涯を送って来ました。」の一文というわけです。

つまりこの一文は、小説全体の書き出しではなく、写真の男自身が書いた手記の書き出しです。はしがきでは外から見た男の顔だけが描かれ、手記に入ったとたん、その男が自分の言葉で語りはじめるという仕掛けになっています。第三者の「私」の目から、本人の「自分」の声へ切りかわる最初の一言だからこそ、強い印象を残すのでしょう。

3枚の写真は、手記の3つの部分とおおよそ重なっていると読むこともできます。1枚目の子ども時代は第一の手記、2枚目の学生時代は第二の手記、3枚目の年齢のわからない顔は第三の手記のころ、という対応です。そう考えると、はしがきは作品全体の予告編のような役割を果たしていて、手記を読み進めながら、男の顔がどう変わっていったのかを想像する楽しみが生まれます。はしがきの語り手は男の名前を一度も出さず、名前がわかるのは第一の手記の途中、父親に呼ばれる場面になってからです。

手記の語り手は自分のことを一貫して「自分」と呼び、文はすべて「です・ます」の丁寧な語り口です。はしがきとあとがきの「私」が「である」調で書いているのと比べると、手記の声のやわらかさと低さが際立ちます。原文で読むときは、この語り口の違いにも耳を澄ませてみてください。

1948年、熱海と三鷹と大宮で書かれた原稿

この小説が書かれたのは、太宰治が亡くなる直前の1948年(昭和23年)のことです。三鷹市の「太宰治略年譜」は、この年の3月ごろから、付き添いの山崎富栄が栄養剤を注射しながら『人間失格』を執筆したと書いています。6月から雑誌『展望』に掲載され、8月まで続きました。

執筆の場所と日付をさらに細かく伝えるのが、太宰治の自筆資料を収めたデータベース「太宰治自筆資料集」の書誌解題です。解題は、3月7日(あるいは10日)から31日まで熱海の宿で「第一の手記」と「第二の手記」の合計206枚を書き、4月2日から28日に三鷹市下連雀の仕事部屋で「第三の手記」の「一」102枚、4月29日から5月10日に大宮の下宿で「第三の手記」の「二」92枚と「あとがき」12枚を書いたと紹介しています。

完成した原稿は200字詰め原稿用紙で全412枚あり、和綴じの4冊にまとめられています。初出は『展望』の30号(6月1日)、31号(7月1日)、32号(8月1日)の3回に分けて載りました。このほかに157枚の草稿があり、夫人の美知子さんが保管していたものが1998年(平成10年)5月に公開され、のちに日本近代文学館に寄贈されています。

草稿には、裏にメモのあるものが21枚、表の余白にメモのあるものが11枚あり、小説の構想にかかわる内容を含んでいます。「恥の多い生涯」の一文も、こうした推敲を経て選ばれた言葉です。原稿をカラーで収めた集英社新書ヴィジュアル版『直筆で読む「人間失格」』では、太宰が消したり書き直したりした跡まで見られます。

6月13日の夜半、太宰は「グッド・バイ」の草稿や遺書を机のそばに残し、山崎富栄とともに玉川上水に身を投げました。『人間失格』の連載は、作者が亡くなったあとも続いて完結しました。作者の死と重ねて読まれることの多い作品ですが、3つの町で2か月かけて書き継がれた、計画的な小説だったことは覚えておきたいところです。

熱海の宿は、咲見町にあった起雲閣の別館です。原稿の枚数で見ると、熱海で書かれた206枚がちょうど全体の半分にあたり、冒頭の第一の手記は、その熱海で最初に書かれた部分ということになります。

冒頭の一文はどんな意味か

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「恥の多い生涯」とは、具体的にどんな恥なのでしょうか。一文のすぐあとに続く文章を読むと、その手がかりが見えてきます。

「恥」の正体、停車場のブリッジと空腹

「恥の多い生涯を送って来ました。」の次の文は「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。」です。この2文目が、1文目の意味を説明する鍵になります。

続けて語り手は、子どものころの思い違いを並べていきます。東北の田舎に生まれた「自分」は、駅の構内にある跨線橋(ブリッジ)を、線路をまたぐための設備だとはまったく気づかず、駅を外国の遊技場のように楽しくハイカラにするための飾りだと思いこんでいました。地下鉄も、地上の車より面白いから作られた遊びだと思っていたと語り手は振り返ります。

寝こんでいるときに見た敷布や枕カバーも、つまらない装飾だと思っていたものが実は実用品だったと20歳近くになって知り、「人間のつましさに暗然とし、悲しい思いをしました」と書くほどです。さらに「自分は、空腹という事を知りませんでした」とも打ち明けます。お腹がすいていても自分で気がつかず、学校から帰ると周りの大人が「おなかが空いたろう」と甘納豆やカステラを出してくれるので、おべっかで「おなかが空いた」と言っていたという告白です。

このあたりで語り手が言いたいのは、自分には人間の営みがわからない、ということです。手記はさらに「人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ」という言葉ほど難解で、脅迫めいて聞こえる言葉はなかったと続きます。この一節はXでも出典つきで引用され、いまの読者の心にも引っかかる部分です。

ここで出てくる「恥」は、何か悪いことをしたという意味の恥とは少し違います。みんなが当たり前にわかっていることが、自分にだけはわかりません。そのずれを抱えたまま、わかっているふりをして生きてきたこと自体が「恥」として語られている、と読めるでしょう。

跨線橋や地下鉄、枕カバーの話は、どれも笑い話のように軽く書かれています。けれども共通しているのは、世の中のものは役に立つからそこにある、という当たり前の理屈が、語り手には見えていなかったという点です。人が生きるために働き、食べるために稼ぐという実用の世界が、語り手にとってはずっと遠いものだったことが、子どものころの思い出を通して少しずつ伝わってきます。冒頭の一文を「自分の失敗を反省する言葉」と受けとると、この小説の核心を取りこぼしてしまうかもしれません。

「送って来ました」という過去形と、27歳の語り手

もうひとつ注目したいのが、「送って来ました」という言い方です。「送っています」でも「送るでしょう」でもなく、ここまでの生涯をふり返って締めくくる形になっています。まるで人生の終わりに立って、過去を総まとめしているような響きです。

では、この手記を書いている「自分」は何歳なのでしょうか。答えが出てくるのは、第三の手記の最後です。語り手は「自分はことし、二十七になります。白髪がめっきりふえたので、たいていの人から、四十以上に見られます。」と書いたところで、手記は終わりです。ことし27歳になるという書き方なので、書いている時点ではまだ26歳なのかもしれません。白髪がふえて40歳以上に見られるという一言は、年齢と見た目のずれを示し、すでに人生を使い果たしたという感覚を補う役目を果たしています。

27歳という年齢を、作者と比べてみたくなる人もいるでしょう。三鷹市の年譜で数えると、太宰治が『人間失格』を書いた1948年は39歳の年です。作者より一回り若い語り手に、早すぎる「生涯」のふり返りをさせたところに、小説としての工夫を見ることもできるでしょう。

27歳の人が「生涯を送って来ました」と言うのは、ふつうに考えれば早すぎる言い方でしょう。けれども手記を読み終えると、その早さこそが大事だとわかります。語り手にとって人生はすでに終わったもので、いまは「幸福も不幸もありません」という場所にいます。だからこそ、27歳で生涯をふり返ることができたと読めるわけです。

一方で、あとがきに出てくる「私」は、この手記には昭和5、6、7年ごろの東京の風景がおもに写されているようだと書いています。手記の中の出来事は昭和の初めごろの話で、それを27歳の男が少し離れた場所からふり返っている、という時間の組み立てが浮かび上がる形です。

Xには、冒頭の一文をフランス語で「J’ai mené une vie remplie de honte.」と訳してみたという投稿もあります。「恥で満ちた人生を送ってきた」という意味で、外国語に置きかえても、過去をふり返って締めくくる形は変わりません。翻訳を考えてみると、「送って来ました」の一語に、人生をすでに終わったものとして眺める視線がこめられていることが、かえってよくわかるでしょう。

道化という「人間に対する最後の求愛」

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人間の営みがわからない「自分」は、どうやって人の中で生きてきたのでしょうか。その答えが、第一の手記に出てくる「道化」という言葉です。

人間を恐れながら、思い切れない

第一の手記で語り手は、隣の人とほとんど会話ができない、何をどう言ったらいいのかわからないと打ち明けます。そして「そこで考え出したのは、道化でした。」と続けます。

次の一文が、この小説の中でも特に引用される言葉です。「それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。」。語り手は、人間を極度に恐れながら、それでも人間をどうしても思い切れなかったと説明し、この道化の一線でわずかに人間につながることができたと書いています。

表では絶えず笑顔をつくりながら、内心は必死で、「油汗流してのサーヴィス」だったという告白も続きます。子どものころから家族に対してさえ、相手がどんなに苦しく、何を考えて生きているのかまったくわからず、ただおそろしくて、その気まずさに耐えられずに道化の上手になっていったという告白でした。

この「道化」は、冒頭の「恥」とつながっています。わからないことを隠すために、いつも人を笑わせ、本当の自分を見せません。そうして人と関わり続けることが、語り手にとっての生き方そのものでした。恥の多い生涯とは、道化を演じ続けた生涯でもあったと言えそうです。

父親が上京の前夜にお土産の希望を聞いた場面も、この性格をよく表す一幕です。「葉蔵は?」と聞かれた語り手は口ごもり、何が欲しいかと聞かれると、とたんに何も欲しくなくなってしまいます。人から与えられるものを拒むこともできず、「イヤな事を、イヤと言えず」と語り手は書いています。主人公の名前「葉蔵」が初めて出てくるこの場面からは、道化の裏にある、選べない心の苦しさが伝わってくるでしょう。

「最後の求愛」という言葉を読むと、道化はただの処世術ではなく、人とつながりたいという必死の願いだったことがわかります。人間が怖いのに、人間を好きでいたい、という矛盾が、この小説の読みどころです。

道化という言葉は、太宰の作品にたびたび出てくる言葉でもあります。三鷹市の年譜には、1935年に「道化の華」という作品を雑誌『日本浪漫派』に発表したことが記されています。いまの読者がこの告白に「わかる」と感じるのは、場の空気を壊さないように笑ってみせた経験が多くの人にあるからでしょう。ただ、語り手の道化はときどき使う気づかいではなく、やめれば生きていけないものだった点が大きな違いです。

竹一の「ワザ。ワザ」と、見破られる恐怖

道化が見破られる場面は、第二の手記に出てきます。東北の中学校に進んだ語り手は、ここでも道化で人気者になっていました。

ある日の体操の時間、鉄棒の練習で、語り手はわざと失敗してみせます。鉄棒めがけて飛び、そのまま幅跳びのように前へ飛んで砂地に尻もちをつきます。計画どおり皆が大笑いし、語り手も苦笑しながらズボンの砂を払っていると、いつのまにか後ろに来ていた同級生の竹一が背中をつつき、低い声でこう囁きました。「ワザ。ワザ」。

語り手は「自分は震撼しました」と書きます。わざと失敗したことを、よりにもよって竹一に見破られるとは思いもよりませんでした。世界が一瞬で地獄の業火に包まれて燃え上がるのを見るような心地がして、叫びだしそうになるのを必死の力で抑えたと続きます。

竹一は、クラスでいちばん体が弱く、学課もできず、教練や体操はいつも見学という生徒として描かれています。語り手は、その生徒にさえ警戒する必要はないと考えていました。いちばん油断していた相手に、いちばん隠したかったことを見抜かれたわけです。名字は覚えていないが名は竹一といったと思う、と語り手が書いているのも、相手をどれほど軽く見ていたかを示しているようです。語り手はこのあと、竹一がいつか誰かに言いふらすのではないかとおびえ、竹一を手なずけようと近づいていきます。

竹一は、のちにもう二つ、語り手の人生にかかわる言葉を残します。ゴッホの自画像を「お化けの絵だよ」と見せたことと、「お前は、きっと、女に惚れられるよ」「お前は、偉い絵画きになる」という予言です。惚れられるという言葉は、語り手が竹一の耳掃除をしてやったときに、膝枕の上で口にしたお世辞でした。第三の手記の冒頭で語り手は、惚れられるという予言は当たり、偉い絵描きになるという予言ははずれたと書いています。

わずか2語の「ワザ。ワザ」は、冒頭の「恥」を外から言い当てた言葉です。自分の恥を他人に見られることの恐ろしさが、ここでは体の震えとして描かれています。失敗の直前まで真面目な顔を作っていた周到さに注目すると、見破られた衝撃の大きさがよくわかります。名言として切りとられることは少ない場面ですが、冒頭の一文を理解するうえで欠かせない一場面です。

結末の「ただ、一さいは過ぎて行きます」

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冒頭の「恥の多い生涯」は、結末でどのような言葉に行き着くのでしょうか。第三の手記の終わりと、あとがきを読んでみます。

「人間、失格。」と幸福も不幸もない場所

第三の手記の終わり近く、語り手は薬物の中毒になり、ある病棟に入れられます。鍵をおろされたその場所は脳病院でした。

語り手は「いいえ、断じて自分は狂ってなどいなかったのです」と書きますが、狂人はたいてい自分のことをそう言うものだと続け、この病院に入れられた者は狂人、入れられなかった者はノーマルということになるようだと書きます。そして「神に問う。無抵抗は罪なりや?」という問いのあとに、題名と同じ言葉が出てきます。

「人間、失格。」「もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。」。この短い2文が、小説の題名の出どころです。読点で区切られた「人間、失格。」は、誰かから下された判定であると同時に、自分で自分に言い渡した言葉のようにも読める一文です。

そのあと語り手は、故郷の長兄に引き取られました。父が亡くなったことを知り、自分の苦悩の壺がからっぽになったように張り合いが抜け、苦悩する能力さえ失ったと書いています。長兄が与えたのは、生まれ育った町から汽車で4、5時間南へ下った、東北には珍しいほど暖かい海辺の温泉地の、村はずれの古い家でした。壁ははげ落ち、柱は虫に食われていたその家で3年と少しが過ぎ、胸の病気は一進一退だったといいます。眠り薬のつもりで飲んだのが下剤だったという、どこかおかしみのある出来事のすぐあとに、手記の最後の言葉が置かれました。「いまは自分には、幸福も不幸もありません。」「ただ、一さいは過ぎて行きます。」。

語り手は、自分がいままで阿鼻叫喚で生きてきた「人間」の世界で、ただ一つ真理らしく思われたのはそれだけだったと書き、「ただ、一さいは過ぎて行きます。」をもう一度くり返します。冒頭で「恥の多い生涯」と言い切った人が、最後にたどり着いたのは、恥も幸福も不幸も、すべてが過ぎていくという静かな言葉でした。

冒頭と結末を並べてみると、「恥の多い生涯を送って来ました」という過去形の意味がはっきりします。語り手は、すべてが過ぎていく場所に立ってから、ふり返って手記を書いています。だから冒頭は、すでに終わった人生の総まとめになっているわけです。この1文目と最後の数行は、ぜひ続けて読んでほしい部分です。

あとがきのマダムの言葉「神様みたいないい子でした」

手記のあとには、はしがきと同じ「私」が書いた「あとがき」が置かれています。「私」は手記を書いた男に直接会ったことはないものの、手記に出てくる京橋のスタンド・バーのマダムらしい人物は少し知っている、と語りはじめます。

ある年の2月、「私」は千葉県の船橋に疎開している学生時代の友人を訪ねました。友人の家がなかなか見つからず、寒さとリュックサックの重さに疲れた「私」は、レコードの音にひかれて一軒の喫茶店に入ります。そこのマダムが、10年前の京橋の小さなバーのマダムその人でした。マダムは奥から3冊のノートと3枚の写真を持ってきて、小説の材料になるかもしれないと「私」に手渡します。

その夜、「私」は一睡もせずにノートを読みふけり、下手に自分の筆を加えるより、このままどこかの雑誌社に頼んで発表してもらうほうが意味があると考えました。はしがきと手記は、こうして世に出たという設定になっているわけです。マダムの話では、ノートと写真は10年ほど前に京橋の店あてに小包で届いたもので、差出人の住所も名前も書かれていなかったといいます。

翌日、「私」は、これが全部事実で自分がこの人の友人だったら、やはり脳病院に連れて行きたくなったかもしれないと口にしました。マダムは何気なさそうに、あの人の父親が悪いのだと答え、小説の本当の最後の一文が置かれます。「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」。

手記の中で「自分」は、自分を恥の多い人間、人間失格の人間として語りました。ところが、その男を知る人の目には「神様みたいないい子」と映っていました。自分では恥と道化しか見えなかった人を、周りの人はやさしい人として覚えていたという食いちがいこそが、作品の大きな仕掛けでしょう。人が自分で思う自分と、他人が知っている自分は違います。

冒頭の「恥の多い生涯を送って来ました」は、本人による自己評価にすぎません。あとがきまで読むと、その評価がすべてではないことがわかり、一文の重さが少し変わって見えるはずです。名言として冒頭だけを覚えている人も、最後のマダムの言葉までたどってみると、作品の印象が大きく変わるでしょう。

よくある誤解と、太宰治のゆかりの地

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有名な一文だけに、引用の仕方や出典の取り違えもよく見られます。最後に、よくある誤解と、作品にふれられる場所を紹介します。

「生れて、すみません。」は人間失格の言葉ではない

太宰治の言葉としてよく並べられるのが「生れて、すみません。」です。『人間失格』の一節だと思われがちで、Xでも3つの言葉を並べて紹介する投稿が見られますが、この言葉は作品の中に出てきません。

太宰の短編『二十世紀旗手』では、題名のすぐあとに「(生れて、すみません。)」という副題が添えられています。この短編は1937年(昭和12年)に雑誌『改造』に発表されたもので、『人間失格』より10年以上前の作品です。さらに講談社の「現代ビジネス」に載った記事などは、この言葉がもともと寺内寿太郎という詩人の一行詩だったと紹介しています。東洋経済オンラインの記事によれば、寺内は太宰の友人・山岸外史のいとこで、太宰は山岸との会話からこの一行を知って使ったとされます。『二十世紀旗手』も青空文庫で読めるので、2作品を読み比べると、10年のあいだの作風の変化も見えてくるでしょう。

もうひとつよく見かけるのが表記の違いです。Xなどでは「恥の多い生涯を送ってきました」とひらがなで書かれることが多いものの、青空文庫の本文は漢字の「来ました」です。底本は1952年発行の新潮文庫で、そのほかの部分でも「事」「無い」など、ひらがなにしない書き方が目立ちます。引用するときは、原文どおり「送って来ました」と書くのが確実です。

なお、題名の「人間失格」という言葉そのものは、第三の手記の終わり近くで初めて出てきます。冒頭の一文と題名は、手記の最初と最後に分かれて置かれていて、どちらも作中の語り手自身の言葉です。作者の決めぜりふのように扱われがちですが、物語の中の人物が自分に向けた言葉だと意識して読むと、受けとり方が変わってくるでしょう。

また、「恥の多い生涯を送って来ました」を太宰治自身の告白として受けとる人も少なくありません。たしかに鎌倉での心中事件など、作者の経歴と重なる出来事は手記の中にいくつも出てきます。けれども語り手は「大庭葉蔵」という作中の人物で、はしがきとあとがきの「私」という別の語り手まで用意されています。作者の伝記として読むのではなく、まずは小説として読むと、さきほど紹介したマダムの言葉の意味もはっきりするでしょう。

金木の斜陽館と、三鷹の太宰治展示室

作品にゆかりのある場所を訪ねたい人には、二つの施設があります。ひとつは、太宰治の生家である青森県五所川原市金木町の太宰治記念館「斜陽館」です。もうひとつは、晩年を過ごした東京都三鷹市の「太宰治展示室 三鷹の此の小さい家」です。

五所川原市のサイトは、斜陽館が太宰の父・津島源右衛門の建てた入母屋造りの建物で、1907年(明治40年)6月に落成したと紹介しています。米蔵に至るまでヒバを使い、1階11室278坪、2階8室116坪の豪邸です。戦後に津島家が手放したあとは旅館「斜陽館」になり、1996年に旧金木町が買い取って記念館として復元しました。開館は通年9時から17時(最終入館16時30分)で、休館は12月29日だけです。入館料は一般600円、高校生・大学生400円、小学生・中学生250円です。

第一の手記で「自分は東北の田舎に生れました」と書かれ、父の上京の前夜に子どもたちを客間に集めてお土産の希望を聞く場面があることを思い出すと、この大きな家で読む冒頭の一文は、また違って響くでしょう。三鷹市の年譜は、太宰がこの家で生まれた最初の津島家の子どもだったとも書いています。

斜陽館と津軽三味線会館の両方に入れる一般共通券は1,000円です。庭園や泉水を含めた宅地は約680坪あり、建物の大きさを体で感じられます。

三鷹市の展示室は、下連雀三丁目のコラル5階、三鷹市美術ギャラリーの中にあり、2020年(令和2年)12月8日に開設されました。展示室の中は太宰の自宅を一部再現していて、常設展示室、企画展示室、体験型展示室のほか、太宰が描いた絵画を縁側から眺めるような空間もあります。開館は10時から18時で、観覧料は無料です。毎週月曜日と年末年始が休館です。展示替えなどで臨時休館することもあるので、出かける前に三鷹市スポーツと文化財団のサイトで確かめておくと安心でしょう。

三鷹では毎年6月19日に、太宰をしのぶ「桜桃忌」が禅林寺で営まれています。1949年に作家の今官一が名づけた集まりです。遺体が見つかった日であり、太宰の誕生日でもある日です。作品を読み終えたら、ゆかりの地を訪ねて、書き手が見ていた景色を感じてみるのもよいでしょう。

まとめ

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「恥の多い生涯を送って来ました。」は、『人間失格』の第一の手記の書き出しで、人間の営みがわからないまま道化を演じて生きてきた男が、自分の人生をふり返って書いた言葉です。竹一の「ワザ。ワザ」、結末の「ただ、一さいは過ぎて行きます」、あとがきのマダムの「神様みたいないい子でした」までを続けて読むと、一文の意味がぐっと深まります。ぜひ青空文庫の原文でたどってみてください。

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demoday編集室のアバター demoday編集室 DreamBeliever

人間関係や日々の気持ちを見つめ直すための言葉と考え方を取り上げる編集室です。言葉を引用するときは、出典を確かめて紹介します。

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