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少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。
この一文だけ見ると、経験のある人へ聞こうね、という教訓に見えるよね。でも、その前の話を読むと、ちょっと待って、そこで帰っちゃうの?という場面があるんだ。
『徒然草』第五十二段の、仁和寺にいる法師の話だよ。
法師は石清水へ参拝したつもりで帰る。でも、ほかの人が山へ登っていくのも見ていた。気づかなかっただけの人、と思って読むと、この部分を飛ばしてしまう。
今回は、最後の言葉へ急ぐ前に、出かけた理由、帰ると決めたこと、帰ってからの報告を順に読もう。短い話の中で、法師の満足と、読む側が気づく違いがどう作られているか。一緒に見ていこうね!
「先達はあらまほしき」は、案内できる人がいてほしいという言葉
先に最後の一文へ答えるね。
ここでの「先達」は、先に経験していて案内できる人。「あらまほしき」は、あってほしい、いてほしいという意味で読む。小さく見えることでも、案内してくれる人がいるとよい、という趣旨の一文だよ。
現在の言葉で「先輩に全部任せよう」と読み替えるより、知らない道筋を分かる人へ確かめる場面として考えると、この話へつながる。
原文は、山梨県立大学のウェブ領域に公開された第五十二段の本文で確認できる。今回は古典の原文を読み、本文中の行動と言葉をたどっているよ。
一文だけなら、助言を求めることの勧めとして覚えられる。でも、それだけで読み終えると、なぜこの話の最後に置かれているのかが薄くなるんだ。
法師が知らないことを知らなかった、というだけなのか。途中で何か気づきそうなものを見たのか。そこを追いかけると、最後の一文の働きが見えてくる。
教訓を最初から知っている読者は、法師の行動を見た瞬間に、ああ間違える人の話だ、と結論を置きがちかもしれない。いったんその結論を横へ置こう。
本文は、法師の出発から始まり、参拝した場所と帰り、さらに帰ってからの話へ進む。最後の一文が来るのは、そのあとだよ。
順番をそのままたどると、案内者が必要という説明を聞く前に、一人で行った人の判断を読むことになる。この順番が、短い教訓とは違う面白さを作っているね。
「少しのこと」とあるから、法師の参拝への思いまで軽かった、と決めなくていい。次に見る出発の理由には、長いあいだ残っていた気持ちが出てくる。
読みながら、法師がどう考えたかと、語り手が最後にどうまとめたかを分けてみよう。人物の発言と、話の結びが同じ人の言葉として続いているわけではないからね。
この区別だけでも、引用した一文を読む目が変わる。法師が反省してこの教訓を語った、とまとめてしまう前に、誰の言葉として置かれているかを確かめたい。
名言ノートへ残すなら、一文の横へ『徒然草』第五十二段と書いておこう。あとでその場面へ戻れるようにしておくと、言葉の意味だけでなく、話の順番も読み返せるよ。
法師は参拝したくて出発し、見た範囲で目的を果たしたと思う
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話の始まりでは、仁和寺にいる法師が、年を取るまで石清水を拝んでいなかったことを残念に思っている。
ふと思いついて近くを散歩した、という出発とは違うね。以前から果たしていないことがあり、それを気にしていた人が、あるとき思い立つ。
本文にあるのは、一人で、徒歩で参拝へ行ったこと。この段だけから、具体的な出発時刻や歩いた距離、所要時間を付け足すことはできないよ。
そのあと、法師は極楽寺や高良などを拝み、その範囲で全部だと理解して帰る。ここで、読む側は、見た場所を目的の全体だと判断したことに注目したい。
何も拝まず戻った人ではない。拝んだところはあり、そのうえで、これで目的を果たしたと考えている。だから単純に、やる気がなかった人、と読むとずれてしまうんだ。
長く気にしていた参拝へ、自分から出かけた。その出発の動きはある。でも、どこまで行けば目的を果たすことになるかの確認が足りない。
その二つを分けると、話の見え方が変わるよね。行動したかどうかと、行動の方向が合っていたかどうかは別の話になる。
読者が石清水の本宮へ向かう道筋を知っていれば、ここで、そこで帰るの?と気づける。知らなければ、法師と同じように、参拝が終わったと思って読み進めるかもしれない。
ただし、現在の参拝案内を、そのまま中世の法師の行程に当てはめないようにしよう。ここでは本文の地名と行動を読む。現地の観光案内や、現在使える移動方法を説明しているわけではないよ。
石清水八幡宮の公式紹介でもこの段が取り上げられ、御本殿が男山の山上にあり、山麓にも別のお社があることを説明している。拝んだ場所と、目的の本殿が同じではなかったことを確かめる手がかりになるね。
同じ公式紹介では、本文に出る極楽寺は焼失して現存しないとされる。現在の案内図で見つからないから本文が誤り、と考えるのではなく、物語の時代の場所と今の場所を分けたい。法師と同じ場所を今そのまま巡れるとは決めないでおこう。
極楽寺と高良の位置関係をもっと確かめたい場合は、注釈や地図を合わせて見るとよい。地名を飛ばすと、法師がどこを目的の全体と思ったかが分かりにくくなるからね。
読むときは、出発の目的を一行、実際に拝んだところを一行、その結果どう思ったかを一行で書いてみて。
目的、行動、判断。この三行がそろうと、最後の教訓へ飛ぶ前に、法師のどこに取り違えがあるのかを確認できる。
頑張った人を笑う話、と最初から決めるより、何を確かめないまま終えたのかを読むほうが、次の場面が気になるよ。ほかの人の動きを、法師はどう見たんだろう?
山へ登る人は見ていた。でも、知りたい気持ちより自分の判断を優先する
法師の言葉を注釈と合わせて読む『新版 徒然草』を楽天で確認する
ここ、この段を読むときに止まりたいところだよ!
法師は帰ってから、参拝した人たちが山へ登っていったことを話す。何があるのか気になったけれど、自分の目的は神へ参ることだと思い、山までは見なかったという趣旨を述べる。
つまり、山へ向かう人を全く見ていなかったわけではないんだ。
不思議に思うきっかけはあった。知りたい気持ちもあった。それでも、参拝が目的だから、と考え、山へは行かなかった。
ここに、目的を大切にすることと、目的の場所を取り違えることのずれがあるね。
本人の中では、目的を守った説明として語られているように読める。でも読む側は、その判断のために、目的を果たすのに必要なところへ進まなかったことに気づく。
法師が山を、単なる寄り道と考えたのか。本文に書かれた言葉から、そのような読み方はできる。ただし、本人が具体的にどんな景色を想像したか、誰に何を言われたかまで作らないでおこう。
山へ登る人へ、一言尋ねていたら違ったかもしれない。そう考えるのは、読む側の仮の想像だよ。本文に、尋ねて断られた場面や、案内を頼む場面があるわけではない。
この違いを残しながら読むと、人物の行動を勝手に増やさずに、可能だった別の選択を考えられる。
本文で確認できるのは、見たこと、気になったこと、それでも行かなかった理由。ここを順番に書き出してみよう。
見たものは山へ向かう参拝者。気になったことは山に何があるか。行かなかった理由は自分の参拝目的。その理由が、目的の場所の確認と食い違っている。
この段を「知らないことは聞こう」だけにまとめると、知りたいと思いながら止まった部分が抜けやすいんだ。知らなかったことそのものより、疑問が生まれたときにどう扱ったかを読むと、話が近くなる。
現代の場面へ置き換えてみるなら、同じ建物で、ほかの人が別の受付へ進んでいるのを見た場面を仮に考えられる。
自分は受付を済ませたつもり。でも、次に必要な手続きがあるのかもしれない。みんなを追いかける前に、自分の目的に必要な窓口を確かめる、という選択がある。
これは記事で作った例で、法師の参拝と現代の手続きが同じだと断定するものではないよ。疑問を無視するか、確認するかという判断を考えるための例だね。
周りと同じ行動をすればいつでも正解、と読む必要もない。本文の見どころは、周りの動きから生まれた疑問を、目的の確認へつなげなかったこと。その一つを、丁寧に追ってみよう。
帰ってからの満足した報告と、最後の一文を分けて読もう
法師の帰宅後の言葉は、失敗を認める報告ではない。
長年思っていたことを果たした、聞いていた以上に尊かった、という趣旨で話している。本人の言葉には、参拝を終えたという満足が表れているね。
そのあとに、山へ登る人が気になったけれど山までは見なかった、という説明が続く。この説明が、読者には取り違えを知らせることになる。
本人が満足を説明しているのに、その説明の中に、本人の知らない不足が見える。
ここが短い話の面白いところだよ。語り手が法師を追いかけて、そこで間違っています、と途中で説明する流れではない。法師自身の報告を読むことで、読む側が違いに気づける。
最後に置かれるのが、先達がいてほしいという一文。法師の言葉を読んだあとだから、その案内がどんなところで必要だったかを考えられるんだ。
法師があとで事実を知り、恥ずかしくなった、怒った、反省した。そういう結末を想像することはできても、この段の出来事としては付け足せないよ。
話は、読者が本人との認識のずれを見られる形で終わる。法師の反省まで描かれなくても、読む側は最後の言葉を受け止められるんだね。
読むときは、最後の一文をいったん隠して、法師の報告までを読んでみよう。本人は何を果たしたと思っているか、その言葉の中で何が気になるかを考える。
そのあと最後の一文を読むと、先達がいることをすすめる理由が、単なる格言より具体的になる。本文のどこを受けているか、戻って確かめられるよ。
もう一つ、語り手の結びだけを残す場合と、法師の報告を少し添える場合を比べてみよう。後者では、一人で歩いて参拝した人の満足と、取り違えが一緒に見える。
名言を人へ渡すときも、これを使って相手の失敗を笑う必要はない。原文の場面を説明して、自分の読みを添える方法がある。
この人物は愚かだ、という評価を先に置くより、どこで確かめられたのかを話す。そのほうが、読んだ相手も本文から考えを返しやすいね。
読んでいて笑える部分があっても、法師の願いや行動が何もなかったことにはしない。参拝したいという気持ち、歩いて行ったこと、見た範囲で終えたこと。その順番を残すと、人物の取り違えを読む厚みが出るよ。
訳だけで終わらず、原文・注釈・自分の読みを並べてみよう
この一段を本で読み返すなら、小川剛生訳注の『新版 徒然草 現代語訳付き』を候補にできるよ。
出版社の公式商品案内では、本文、注釈、現代語訳を備えることが確認できる。ISBNは9784044001186。楽天の確認先でも、兼好法師の著、小川剛生の訳、同じISBNが載る一冊を確認した。
現代語訳だけで話を追いたいときと、原文の言葉へ戻って確かめたいとき。その両方を考えて選ぶ候補だね。
ただし、今回の記事の言い換えや読みは、この版の現代語訳を転載したものではない。公開された古典の原文を読んで、記事の説明としてまとめているよ。書籍の注釈の全文を読んだ感想として紹介するものでもない。
本を開くなら第五十二段から。まず、出発、参拝と帰り、帰ってからの報告、最後の一文と分けて読もう。
分からない古語を見つけたら、それが人物の気持ち、行動、判断のどこに関わるかも見る。意味を一つ覚えるだけでなく、その言葉の前後へ戻りたいね。
読書メモは三つに分けると混ざりにくいよ。原文から確認できること、注釈で確かめたこと、自分が考えたこと。この三つ。発言は法師、結びは語り手、と話し手の欄も分けてみて。
たとえば、山へ向かう人を見たことは本文にある。地名の位置関係は注釈などで確かめる。疑問を感じたときに尋ねたい、という考えは読む側の応用として書く。
分けておけば、自分の感想を原文の出来事として覚えてしまうのを避けやすい。あとで読み返したときにも、どこを確かめ直すかが分かるね。
購入前には、書名だけでなく訳注者とISBNを見てね。価格、在庫、配送条件は買う時点の表示を確認しよう。別の訳の『徒然草』を持っているなら、まずその本の同じ段を読む方法もあるよ。
最後の一文は、案内してくれる人がいてほしいという言葉。でも、その前には、行きたい場所へ歩いて出かけた人と、気になったことを確かめずに帰った判断がある。
今日は、法師が山へ行かなかった理由のところへ戻ってみてね。知らなかった、だけでは終わらない一段だよ。
知りたいと思ったのに、どうして止まったんだろう。その問いを持つと、短い教訓の前に、人物が自分の判断を説明する面白さが見えてくる。最後の一文まで、もう一度一緒に読んでみよう!